第6章 私の深く尊敬する2人の恩師


1.ダクタイル鋳鉄発明者ミルスさん

 球状黒鉛鋳鉄の発明者であるK.D.MILLIS氏は1915年にNEW YORK州RENSSELAERに生まれ、1936年にその地の工業大学を卒業、続いて1938年に工学修士号を得て、1939年INTERNATIONAL NICKEL Co.(INCO)に入社、冶金技術者としてBAYONNE研究所に配属された。
 球状黒鉛鋳鉄の発明は1943年、この研究所においてであった。そして1948年にはダクタイル鋳鉄(DCI)として全世界に発表されるに至った。
 ダクタイル鋳鉄発明の経緯についてはすでに述べたので重複をさける。
 さて、1968年(昭和43年)秋10月、DCIライセンシー国際会議が京都で開かれ、氏は初めて来日した。
 会議は盛大で、大成功を収めた。会議が終わった翌日の夜、世話役の数名が誰言うとなくミルス氏の宿、京都ホテルに集まった。そしてホテルのトップにあるバーのテーブルで氏を囲んだ。澄み切った東山の夜空には、見事な三日月が輝いていた。氏はオリーブの実を沈めたマティーニの盃をあげ、「乾杯!」といった。しばし歓談のあと、席を祇園の二段屋に移して「しゃぶしゃぶ」を楽しみながら夜の更けるのも忘れるばかりであった。
 その後も氏は数回来日している。
 私どもも渡米したとき、ウォール街の事務所を訪れ、ニュージャージー州のINCO研究所を案内してもらったこともあった。


写真14 嵯峨野を散策されるミルス氏

 ミルス氏は非常に魅力的な人である。容姿端麗、控えめで、いつも笑みをもって静かに語る。私欲がなく、清らかな人柄である。そのうえに日本が好きで、日本に来れば心が和むという。あるとき、私と妻と娘の3人で京都見物の案内をしたことがあった。三十三間堂では夥しい仏像を一体一体丹念に見て回り、案内の僧に質問を連発される。また、金閣寺の庭園では“賢者の椅子”に座って茶目っ気をふりまき、周囲の観光客を笑わせたりもした。嵐山では例のしゃぶしゃぶを食べながら、家族のことなどを時を忘れて語り合ったこともある。夕暮れの洛北の風景もお気に入りだった。
 最後に来日されたとき、(今やそうなってしまったのだが)日本を去るに当たってなにかお土産をさし上げたいといったら、ご自身で有田焼の壷を選ばれた。後日私の娘が結婚したとき、すばらしいLENOXの器をアメリカから、わざわざお祝いにと贈っていただいたりした。  時には厳しい面もあらわにされる。たとえばクリスチャンでもない日本人から清水寺をバックにしたゲイシャガールなどのけばけばしいクリスマスカードをもらうが、あれはどうだろうかと不快そうな顔をされる。
 そうした氏も病魔には勝てなかったようだ。実は亡くなる26年前に片肺の40%を切除、さらに11年前にはもう一方の片肺の手術をされた。それでも元気に仕事をされていたが、1990年からは酸素ボンベを使うようになり、1992年正月の便りでは、仕事ができなくなったといって来られた。私の方からは「頑張って下さい。夏には休暇をとって激励にまいります」との手紙を差し上げておいた。
 約束の夏がきた。渡米の少し前、あれは熊本での日本水道協会九州地方支部総会のときだった。当時の菊地専務理事さんとお話しているうちに、ひょんなことからミルス氏の話になり、実は近くお見舞いに行くつもりだと申し上げたところ、菊地さんから「それはお前のところだけの話ではないじゃないか、日本の水道の恩人でもあるぞ」ということになり、一幅の端麗な姿の鶴の絵の額をお見舞いにと預かって、アメリカヘと飛び発った。  7月15日、ニューヨーク空港に降り立った私と妻は、ミルス氏が数日前に亡くなられたと知らされた。誠に残念。しばし天を仰ぐほかなかった。日本を発つ直前に受け取った6月26日付の「待ち望んでいるよ」とのいつもながらのしっかりした自筆の手紙を私は握りしめた。余りにも急だったことが悔やまれた。
 翌日、ニュージャージー州スコッチプレンの森の中に、閑静な氏のお宅へ伺ったら、ご子息が次のように話してくれた。「父はすでに覚悟していたらしく、苦しむこともなく、静かに逝きました。若い頃の厳しい研究活動とヘビースモーキングのため肺がボロボロに傷んでいました。最近は庭のプールにボートを浮かべ、日光を浴びながら好きな野球のラジオを聞くのが楽しみでした。生前、なにが一番ほしいかと聞けば“新しい肺”と答えました」と。
 私たちは故ミルス氏の書斎に案内された。正面テーブルの上には七宝焼の大壷が置かれていた。それはまさしく、1968年京都国際会議場の庭園におけるパーティの開幕に当たって、日本DCI協議会(現日本ダクタイル鋳鉄協会)からのプレゼントとして当時代表だった田中勘七氏((株)クボタ副社長)からミルス氏に手渡されたものであった。そして氏が常用された椅子の背後の本棚の片隅には思い出の有田焼の壷も見えた。私はミルスさんの高邁な人格とりっぱな業績を深く慕って、忘れることができない。

2.ライフライン耐震工学の泰斗 久保慶三郎先生

 勲二等瑞宝章東京大学名誉教授、故久保慶三郎先生は、土木学会の耐震工学委員長、第74代土木学会長、(財)耐震予防協会理事長その他内外の各種要職を歴任、昭和55年には米国機械学会創立100周年記念賞、平成5年には土木学会功績賞など幾多受賞され、その業績は内外にわたり輝かしいものである。もちろん水道、ガス関係でも各種委員長などとしてずい分とご盡力いただいたお方である。
 私が先生にお世話になったのは昭和51年度建設省建設技術研究補助金により「地中施設の耐震継手に関する研究」が実施され、(財)国土開発技術研究センターに地下埋設管路耐震継手技術委員会が設けられ、その委員長に就任をお願いするため、東大生産技術研究所へお訪ねして以来のことであった。  その研究成果は「地下埋設管路耐震継手技術基準」((財)国土開発技術センター、昭和52年3月)として刊行されている。また、数量化理論による老朽管路の診断手法についてもご指導いただいた。これも現在活用されている。
 昭和52年夏、UCLAにおいてアメリカ土木学会のLIFELINE EARTHQUAKE ENGINEERING学会があり、久保先生が講演されることになった。私も個人の資格で参加した。先生はデンバーで開かれた別の会議に出席されたあと、夜おそくロスアンゼルスに入られた。早速「ホテルに来ないか」との電話をいただいたので、ほど遠くない私の宿から出向いた。約束のバーで落ち合い、とまり木に座り、ウィスキーグラスを傾けながら、デンバーでの会議のことや、親善ゴルフの楽しかったことなどをお話いただいた。私はロスに入る前に見てきたイエローストーン国立公園(米国第1号の国立公園)の間歇泉オールドフェイスフルの雄大さに打たれたことなどお話し、誠に楽しい一時を過ごした。お話の中で私は今回の学会名の「ライフライン」なる言葉が非常に新鮮であり、大いに気に入っていたが、日本では一般化しておらず、マスコミにも出たことがないように思うので、その出所なり意義なりがいかなるものかをお伺いした。先生のご説明は「新潟地震におくれること7年後の、1971年アメリカでサンフェルナンド地震が発生、高架橋が落ちるなどの被害が生じたが、アメリカで注目したのは高架橋よりもむしろ水道、ガス、電気の施設に対する被害であった。この重要性に気づき研究を始めた。この分野について、マーティン・デュークという先生が、ライフライン地震工学という言葉を使ったのが始まりだった」と。まさに現在の日本においても、そうあるべきだなと痛感したことだった。すでに夜も更けていたので、明日を約してお別れした。
 さて翌日の会議では、先生は日本における過去から現在に至る地震の分析と、最近のライフライン地震工学の進歩状況について流暢な英語で論じられた。中でも地下埋設管の耐震基準にふれられ、ダクタイル鉄管のS形耐震継手の性能などもご紹介され、盛んな議論が湧いた。
 また、先生が常々おっしゃっていたことは、「安全は金で買うという考えが大事だ。これを基本にしないと色々の問題が解決していかない。丈夫なものにするよう、あとの祭りにならないように早く手を打つ、このように行政に動いてもらいたい。それをサポートするのが大学の研究機関であり、メーカーの立場だと思う」と。また、「埋設管の場合、実証することが難しいから、今までのデータ、これは神様がくれたデータだから、過去の地震時の被害状況を克明に解析することが大事」とも主張された。そのほか、事ある毎にご親切なご指導をいただいた。
 話は変わるが、私どものアクアカルチャー基金が例年の行事として毎夏行っているフォーラムの平成7年度予定については、久保先生に基調講演をお願いし、片山先生と亀田先生の御三方で「ライフライン施設と地震を考える」のテーマのもと、平成7年7月31日、東京で行うことをすでに平成6年11月に決定し準備を進めていた。ところがその後、いくつかの思いがけないハプニングが起こった。というのは平成6年12月28日の三陸はるか沖地震、明けて7年1月17日の兵庫県南部地震、4月1日の新潟県北部地震であった。いずれも悲惨きわまりない大被害をもたらせた。さらに誠に痛恨に耐えないことに、5月30日には先生が突如として世を去られたのであった。(冒頭に書かせていただいた勲二等瑞宝章の叙勲は、ご逝去の直後にお受けになったものである)まさに巨星が去り、天空が真暗闇になったような衝撃を覚えた。
 思えば前年の9月末から10月にかけて、日米ライフライン液状化対策会議に日本代表として渡米され、その後少し体調を崩されたようであったが、お休みにならず。超多忙の毎日であられたようだった。その頃のご無理がお体にこたえられたのであろうか。誠に残念至極でならない。享年73歳であった。
 先生はユーモアに富み、温かい寛容なお人柄で、太い黒ぶちの眼鏡の奥で、澄んだ眼差しがいつもニコニコ微笑んでおられた。今もなお先生のお側でお話をうかがっているような気がする大恩人であった。

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