第4章 太平洋戦争前後の鋳鉄管


1.戦前戦中の苦難時代

 昭和12年日中戦争勃発、13年には国家総動員法が公布され、生産活動に必要な原料、資材、人もすべて軍需優先となった。あげくの果てに16年には太平洋戦争に突入。
 昭和12年の鋳鉄管の全国生産量は14万トンであったが、16年には8万トンに減少、しかもそのほとんどが軍用水道向けで、民需は極端に圧迫されるに至った。当時の事情を物語る一例を話してみよう。
 鋳鉄管用銑鉄を確保したいと考えた久保田氏は、尼崎製鋼所と共同で350トン高炉を有する本格的な製鉄所を建設、ようやく16年6月に竣工を見たが、すでに戦時統制下にあり、その銑鉄はついに隣接の武庫川鉄管工場へ一片も運ばれることなく終わってしまったのであった。
 かくて20年8月、日本は破局に至り、筆舌につくし難い戦後の数年を迎えることになった。

2.戦後の混乱と復興の時代

 戦争による荒廃は惨状を極めた。都市の水道施設をとってみても、爆弾による施設の破壊、焼夷弾による家もろとも給水装置の焼失のため、漏水率は70%を越える有様、鋳鉄管の工場も多くは全焼あるいは破壊のため生産は不能に陥った。
 昭和25年に朝鮮戦争が勃発、その特需を契機としてようやく経済が立ち直り始めた。そんな中で鋳鉄管は何をしたか。破壊された工場を修復しつつ、あらゆる困難と闘いながら原料、資材、人の確保に奔走する一方、四散してしまった鉛コーキングの継手熟練者不足を補い、かつ水密性を高めるためのメカニカル継手の開発、あるいは維持管理を容易にするためのセメントモルタルライニングの実用化などに努めた。なお、埼玉県でピストン関連品を製造していた東洋精機(株)が昭和24年に鋳鉄管の製造を始め、現在の日本鋳鉄管(株)に至っている。

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